別館 巫氏春秋

主に三国志について   書き手:巫俊(ふしゅん)

曹操の南征で帰順した荊州在住の士大夫たち

和コウ{シ合}は汝南郡西平県の人。冀州袁紹の誘いを逃れて親戚・旧知の人たちと荊州劉表を頼る。劉表は和コウを上客として待遇するが、劉表の周りでは讒言が流行り危険が身に及ぶと考えて、武陵に南渡する。そうして曹操の南征があり、和コウは丞相府のエン属として出仕し、魏国が成立してからは侍中、 郎中令、太常と歴任する。爵位は西陵郷侯、200戸。

裴潜は河東郡聞喜県の人。荊州に逃れ劉表の手厚い礼を受けていたが、劉表の敗れるのもそう遠くは無いと判断し、長沙に逃れる。曹操の南征に従い、参丞相軍事、三県の令、倉曹属を歴任し、代郡太守として赴任した際は烏丸と大胆に交渉し単于を従える。沛国の相、エン州刺史を歴任し、エン州刺史として執務に当たっていた際は州軍を乱れ無く統率し曹操を驚かせる。文帝の即位してからは散騎常侍、 魏郡、潁川典農中郎将、荊州刺史を歴任、明帝の即位してからは河南尹、太尉府の軍師、大司農、尚書令、死後に太常の位を贈られる。爵位は関内侯から清陽亭侯に転じ、200戸。

劉備の旗揚げとナゾの「幽州太守」劉焉

三国志演義』を読み始めた頃だったと思いますが、気になっていたことがありました。

横山光輝「三国志」での印象なんですけど、黄巾に対抗する義勇兵の募集の立札を見た劉備が、関羽張飛とともに、自分たちが属している地方の長官「幽州太守」劉焉のもとに出頭した話です。劉備義勇兵の隊長として認められ、太守の配下の「鄒靖将軍」といっしょに出陣していきます。

 

このあとで、劉備が上司に恵まれず、さんざんな目に遭って行く展開(これらはすべて「演義」系の三国志です)を思うと、劉焉は親しく劉備と会話をし、会見しているのですし、劉備の記憶に残っていてもよさそうなんですが。

 

それで、私は、気になって『三国志演義』のなかで、劉備の入蜀(かなり後の方の場面です)のシーンを何度も見直しました。入蜀した劉備は、かつてお世話になった劉焉の息子の劉璋益州牧)に出会い、その客将(というより、蜀に滞在する同格の将)となります。当然、「お父様には昔、お世話になりまして」と伏線がここで解消されるはずなのですが(笑)

 

無かったこと、になっているんですね。劉焉と劉備の関係が(笑)

というのも、どちらかといえば、劉備と劉焉の出会いの話自体が史実ではなく、いつの間にか小説の中に盛り込まれ、「演義」の内容として定着している話だから、一応は史実に基づく入蜀の場面では、もうそんなこと忘れ去られているみたいです。

 

でも、私は、忘れないでいたいなぁ、と思っています。

 

あと、「幽州太守」ですが、そんな官職は後漢時代に存在しません。劉焉が幽州の長官だったこともありません。日本の色んな漫画系の三国志でも、この部分の官職、そのまま使用されていることが多いです。あとの場面と矛盾しないんですかね?

これには原因があって、後漢時代には広大なエリアの州を管理する「州刺史(牧)」と、その下の主要都市を管理する「郡太守」がありましたが、のちの時代になると、州が細かく分割されるようになり、州がかつての郡のサイズになっちゃうんですよね。久々に中国を統一した隋では、州を廃止して郡に戻しますが、次の唐からまた州に戻ります。そういうことで、近世中国人とどっちでもいいという感覚があったようです。

「正史」という言葉について

何か、私が世間ズレしてるのかもしれませんが、

某所で以下のようにご指摘頂きまして、

 

「正史」→「作品A」

「正史」→「演義」→「作品B」

 

という流れに整理できるから、「演義」も、実は「正史」を強く意識した作品であり、「作品A」だけ正史準拠とはならない。

 

そういうお話でした。なるほど、と思いつつ、心のどこかで消化できない感じがあって気になっていました。

これなんですけど、「正史」って略称、三国志三国志以外で、意味しているものが違うんじゃないでしょうか?

 

本来の正史とは、二十四史などと呼ばれる中国の代表的な歴史書のことですが、正史『史記』とか、正史『漢書』とか、そう言わないとは言えないけど、慣れてくれば『史記』や『漢書』としか呼びませんし。

 

それに対して、三国志の略称の「正史」は、同じタイトルで親しまれた『三国志演義』を『三国志』と呼ぶ習慣があるからです。私の感覚では、演義と区別するために、他の歴史を研究するときには使わない言葉だと思いながら、略称として「正史」という言葉を使用してきました。

 

また、「正史」準拠といっても、何も陳寿歴史認識の通りに小説を書くべきという訳でもなく、そういう意味ではないんですよね。(正史は正しい歴史というより、後世の王朝が正統と認めたたぶんに政治的な歴史評価のこと。)

ということは、「正史」という言葉を、現代の歴史学の水準で認められた「史実」と同じ意味で使うのも言葉の転用なんですね。

 

だから、いったん「演義」と区別した上で、歴史の史実を探求したいという気持ちが入っている作品を、「正史」系の作品と呼べばいいのかなと思います。気持ちの問題だし、創作が入っていて普通だということでした。

 

 

 

 

はじめての頃の三国志

はじめての頃の三国志

「しゅうゆ」を「しょうゆ」と間違えて覚えたあの頃・・・

光栄の武将ファイル?の記述から解読して、諸葛亮の中国語読みを、

「おちゅうくりゃん」だと推定!

中学校の音楽室のピアノの下で、そのことを友人に語りかけ、一笑されて相手にされなかった、あの日々・・・

(本の記事の見出しに中国語音ルビがあったんですが、「お」の発音が、何だったのか、未だに不明)

 

今更、はじめての頃の三国志を語ろうとしても、そこから出発して研究の旅に出かけてしまい、

 

春秋時代の中原諸国が「鉄の民」狄(てき)に圧倒されてた歴史

togetter.com

 

とか、

 

「獅子」の語源は何か?前漢武帝が飼ったライオンの呼び名

togetter.com

 

だとか、そっち方面に出かけてしまった私が、倦怠感を発散しながら、三国志をいちから分かりやすく???紹介するブログです。(上記リンクは、小生の研究成果を書いたまとめ記事です)

なお、PVが「ぺーじびゅー」と読むことは文脈で分かったけど、ブログで商売する仕組みを全く知らない人間なので、ブログの商業利用はしません。