劉備の旗揚げとナゾの「幽州太守」劉焉
『三国志演義』を読み始めた頃だったと思いますが、気になっていたことがありました。
横山光輝「三国志」での印象なんですけど、黄巾に対抗する義勇兵の募集の立札を見た劉備が、関羽、張飛とともに、自分たちが属している地方の長官「幽州太守」劉焉のもとに出頭した話です。劉備は義勇兵の隊長として認められ、太守の配下の「鄒靖将軍」といっしょに出陣していきます。
このあとで、劉備が上司に恵まれず、さんざんな目に遭って行く展開(これらはすべて「演義」系の三国志です)を思うと、劉焉は親しく劉備と会話をし、会見しているのですし、劉備の記憶に残っていてもよさそうなんですが。
それで、私は、気になって『三国志演義』のなかで、劉備の入蜀(かなり後の方の場面です)のシーンを何度も見直しました。入蜀した劉備は、かつてお世話になった劉焉の息子の劉璋(益州牧)に出会い、その客将(というより、蜀に滞在する同格の将)となります。当然、「お父様には昔、お世話になりまして」と伏線がここで解消されるはずなのですが(笑)
無かったこと、になっているんですね。劉焉と劉備の関係が(笑)
というのも、どちらかといえば、劉備と劉焉の出会いの話自体が史実ではなく、いつの間にか小説の中に盛り込まれ、「演義」の内容として定着している話だから、一応は史実に基づく入蜀の場面では、もうそんなこと忘れ去られているみたいです。
でも、私は、忘れないでいたいなぁ、と思っています。
あと、「幽州太守」ですが、そんな官職は後漢時代に存在しません。劉焉が幽州の長官だったこともありません。日本の色んな漫画系の三国志でも、この部分の官職、そのまま使用されていることが多いです。あとの場面と矛盾しないんですかね?
これには原因があって、後漢時代には広大なエリアの州を管理する「州刺史(牧)」と、その下の主要都市を管理する「郡太守」がありましたが、のちの時代になると、州が細かく分割されるようになり、州がかつての郡のサイズになっちゃうんですよね。久々に中国を統一した隋では、州を廃止して郡に戻しますが、次の唐からまた州に戻ります。そういうことで、近世中国人とどっちでもいいという感覚があったようです。